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介護用品の利用が堅調に推移

介護に関する仕事は体力勝負です。女性にはなかなか厳しい部分もあるのではないかと思います。

結核の化学療法が偉力を発揮しはじめた戦後まもなくの時期には一〇万床そこそこであったわが国の結核べッドが、いわば惰性でふえつづけ、一九六〇年ごろには二六万に達し、世界一の結核べッド国になってしまいました。
そして今は空きベッドをどのように利用するかで、全国の結核療養所が苦労しているのです。
一方、精神病のべッドは一九六〇年から八〇年までの間に、一〇万足らずから三〇万をこえるまでに、つまり三倍にふえました。
精神病の薬物療法が進歩して採算がとれるようにもなったし、治療のしがいがあるようになったからでもありましょうが、日本という国のベッド好きと無関係ではなさそうです。
他方アメリカでは、一九六二年から一九七八年までの間に六〇万床から二〇万床に、つまり二分の一に削減しましたし、イギリスでも一九六〇年代に半減しました。
精神病というのは個人が社会に適応できなくなった状態であると考えることもできるわけですから、隔離された施設から開放して地域社会を治療の場とすることによってできるだけスムズに適応の目的を達すべきであるという考え方に基づいているのですが、一般の慢性病の場合も大筋では同じことがあてはまるでしょう。
慢性病にも密度の高い医療を必要とする時期が当然存在しますから、設備のととのった病院の必要性はいうまでもありませんが、なるべく早く退院して地域社会の中で生活者ないし社会人としての生き方を身につけることが、望ましいプログラムであると私は考えます。
治療の終局の目標は社会的役割の回復つまりリハビリテーションであるはずですから、ある意味で病院と治療とは対立する概念であるといえなくもないでしょう。
しかしアメリカの精神病床削減の場合も、地域の受け皿が十分整わないうちに強行されたものですから、少ながらぬ混乱が起こりました。
わが国の場合もべッド数や病院の在院日数がずば抜けて大きいといっても、退院しようにもウサギ小屋、核家族という現状ではどうにもならないには違いありません。
病院偏重の医療を病院側の不心得や営利主義、あるいは患者側のわがままや勘違いだけに帰するわけにはいかないことは全く明らかです。
けれども今後の努力の方向としては、病院と診療所あるいは地域保健システムとの脱病院役割分担を明確にして相互の連絡を密にし、病院には必要な期間だけ入院するようにし、その代わり入院している間は困難であってもできるだけ人間らしい生活が維持できるように配慮しなくてはならないでしょう。
必要以上に長いあいだ入院をつづけながら、その間、家庭にいるのと同じようにゆきとどいた扱いをしろといっても無理な話でしょう。
病院は必要悪だといいましたが、それだからといって、病気に苦しんでいる患者に生活上の我慢まで強いるのはほめた話ではありません。
痛いのを我慢して必要な手術を受けなくてはなりませんが、痛くない方がいいにきまっていますO”本当かどうか知りませんが、吉村昭さんの書かれたものによると、局所麻酔で肺結核の手術が行われていた終戦前後、手術台の上で痛みに耐えかねて患者が動きまわると手術の妨げになるというので、これを防ぐために患者のほっぺに平手打ちを食わせる役目の「なぐる看護婦」がいる病院があったということです。
全身麻酔が普及した今日では全く痛みを感じないで手術が受けられるようになりましたから、日本中どこでもこんな野蛮な病院はなくなりました。
同じ理屈で入院期間をできるだけ短縮し、その代わり入院している間はできるだけ気持のいい病院生活が送れるように努力しなくてはならないことはいうまでもありませんが、それとともに病院万能の固定観念を打ち破る努力が必要なように思います。
組織化された医療の効率を上げるためには、急性病院と慢性病院の分化というこの病院と、生活的ないしリハビリテーション的色合いの強い慢性病院との間の患者の出入りが円滑に行われること、それらの病院と地域社会との間の出入りもギクシャクしないように条件をととのえることが、さし迫った課題であると考えます。
もっとも急性病院と慢性病院の分化ということは、必ずしも図上作戦通りのキレイゴトではすまないことを知っていなくてはなりません。
それというのも、低医療政策に悪用されやすいからです。
アメリカの場合は、慢性病院、熟練看護婦の管理するナシングホムと呼ばれる施設、熟練看護婦のいないナシングホムというように分けられるわけですが、質の悪いナシングホムが大きな社会問題になっているようです。
とにかく「病院万能」あるいは「はじめに病院ありき」というところから出発するのではなく、地域医療計画がまず存在して、その中でいわば部分的役割を果すものとしての、すなわち地域医療の機能的な一部としての病院という位置づけがなされなくてはならないと考えるのです。
それが、組織化された医療のあるべき姿でしょう。
病院が孤立した巨人であってはならないのです。
もっとも、ある意味できわめてよく組織された医療であるはずのイギリスの国営医療システムもなかなか理想通りにはいかないらしく、あらかじめ登録しておいた主治医を通じて入院する仕組みに正直にしたがっていると半年も一年も入院を待たされるようですし、専門医の自由診療を一部、安全弁として残さねばならなかったのですから、医療というものの根本的な難しさをあまり甘く見てはならないと私は考えます。
それにしても今日のレベルでの医療は、地域医療といえどももはや一人の医者対一一九五〇年には、わが国の出産のわずか四・六%が病院で行われたにすぎませんでしたが、一九七六年には九九%が病院出産です。
一方、一九四七年には病院内での死亡は九・二%でしたが、一九七八年には五二・七%になりました。
出産の方は予定できるので一〇〇%近いが、死亡の方は必ずしも予定できませんから自宅や街頭で死ぬ割合が比較的高いわけで、もし死亡も予定できれば、病院内で死ぬ人の割合が更にふえることでしょう。
まさにイリッチなどのいうように、現代人は生まれる時から死ぬまで医学的に管理されているわけで、イリッチが「医原病」を問題にするのも、ある意味でもっともなことのように思われます。
本来、医原病というのは、医療者の言動によって引き起こされる病気のことでした。
しかし、その後、手術とか薬剤とかのあらゆる個別の医療技術によって起こる病気を総称するようになりました。
ところがイリッチは、個の医療手技によるものではなく医療そのものによる人間被害をこの言葉で表わしているのです。
出産の見直イリッチのような理論的反医療派でなくても、このような医療、ことに病院医療を求めての「過度の支配」に対する自然発生的な反発の兆しは少なくありません。
病院で死亡するとなると、また大変です。
昭和五年に東京駅頭で狙撃された時、見舞われた人の書かれたものによると、S先生はしきりに何かを話したそうにしておられたのですが、鼻や口にいろんな管が取り付けられていて口がきけず、結局意志を伝えることができず、まことに気の毒であったということです。
近ごろでしたら集中治療室に入れられて、家族の面会も制限されるでしょう。
死ぬ時だけは畳の上で家族に見守られて死にたい、という希望をもっている人は決して少なくないようです。
病気を治すためには手術も受けねばならないし、入院もしなくてはならない。

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